知覚と実感、そして認識について

久しぶりだなあ またレールに乗りました。
元気にやってます。

私が実感できることが私の世界の全てであって

私に実感できないなにかがあるということは理解できても私の一部にはならない だからそれは私を動かすことはない
 
複雑さ精密さの極致であるように見えてつるつるぴかぴかしている機械とか 白秋の「夜」だとか国会図書館新館1階の舞だとかには美があると感じるしなにかじんわりゆっくりとした音波みたいな情動を感じる その場合それは私にとっての芸術作品で朔太郎の言うところの生きて働く心理学たりえているのだと思う
 
でもトレヴィの泉の良さはわからないしサモトラケのニケもカメラオブスクーラもフラアンジェリコも同じ ラオコーンの死は好きだけど教科書に価値があると書いてあったり周囲がすごく大切なものとした物言いをするから私はそれに価値があるんだろうと理解するし価値のあるもの芸術だとして扱う それは私の持つ社会性だと思う
 
 でもそれは私の実感ではないし内側に入ってはこない 私の何も振動させない 

普通になりたい

普通になりたい。まともになりたい。人並みになりたい。

 

今まで人並みになりたい、自分は劣等生だと思うことは多々あったけど、勉強を頑張って良い大学行って部活を一生懸命やって、ってステータスを普通に近づけレールに乗る努力をしてきたことでなんとかカバーできていた、歪みを見せないようにできていたんだと思う。
でももうやっぱりごまかしがきかなくなってきて だからこんなに辛いんだきっと。いやだもう嫌だ
普通になりたい。普通で良いのになんでそれすらダメなんだろう。
開き直って強く生きているつもりだけど、ふとした時、今みたいに私はなんなんだろうという疑問と劣等感に首をしめられそうになる。
かえりたい
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就職活動と振り返り

お久しぶりです。

就職活動が忙しく、なかなかブログを更新する余裕がありませんでした。
そう、私は就活生
 
就活生なんですね…
 
何だか信じられません。
私は社会人とそうでない人の間には高い壁があると思っていました。働くことは価値のあることで、何かすごく難しい通過儀礼があってそれを乗り越えた人だけが社会で働けるのだと。
 
ですが、周囲を見ていると"働く"こと自体は今の日本社会にいれば基本的には誰にでもできることなのだと分かりました。
こんな事を言うと怒られるのかもしれませんが、アルバイトなら応募すれば大抵のところで雇って貰えるし、私の周囲の"普通の"大人で働いていない人はいませんでした。

詩人でもない私が詩について考える①

詩とはどういうものなのか。

私がこんなこと考えるのもちゃんちゃらおかしいかな?

 

 

自分と詩の関わりについて考えてみると、私はおもに詩を読む側であって頻繁に詩を書くことのない人間だ。しかも大学に入るまでは教科書を通してしか詩に触れたことがなく、自分とは遠い領域にあるものだと考えていた。

しかし興味を持ち少しずつでもそれらを読むようになると、ほんのいくつかではあるが不思議と印象に残るものがあった。それは北原白秋の『夜』の最後の部分であったり室生犀星の『小景異情』の冒頭であったりしたが、萩原朔太郎の『竹』『地面の底の病氣の顔』は特に心に残るものだった。

なので、私が詩とは何かというテーマについて考えたとき一番に思い浮かんだのは、萩原朔太郎『月に吠える』序文の

『詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。』(萩原朔太郎 1917)

という一節だった。

 

これはいったいどういう意味なのか。

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