詩人でもない私が詩について考える①

詩とはどういうものなのか。

私がこんなこと考えるのもちゃんちゃらおかしいかな?

 

 

自分と詩の関わりについて考えてみると、私はおもに詩を読む側であって頻繁に詩を書くことのない人間だ。しかも大学に入るまでは教科書を通してしか詩に触れたことがなく、自分とは遠い領域にあるものだと考えていた。

しかし興味を持ち少しずつでもそれらを読むようになると、ほんのいくつかではあるが不思議と印象に残るものがあった。それは北原白秋の『夜』の最後の部分であったり室生犀星の『小景異情』の冒頭であったりしたが、萩原朔太郎の『竹』『地面の底の病氣の顔』は特に心に残るものだった。

なので、私が詩とは何かというテーマについて考えたとき一番に思い浮かんだのは、萩原朔太郎『月に吠える』序文の

『詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。』(萩原朔太郎 1917)

という一節だった。

 

これはいったいどういう意味なのか。

 

生きて働く心理学というからには、詩は温度を感じさせるものでなければならない。そして力を持ったものでなければならない。

朔太郎はまた、同書で「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演澤することのためでもない。」「詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に頸動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」(萩原1917)とも述べている。

詩やそのリズムは、人間の感情の理由ではなく感情そのものがどういうものであるのか、どうしてそう感じるのかではなくどういうふうに感じているのかを共有することができるものなのだ。つまり、彼にとっての詩とは、それぞれが「永久に、恐ろしい孤獨」(萩原 1917)のもとに生まれた人間同士をつなげることのできるものだ。

彼はそう考えているからこそ、「詩とは、そんな奇怪な鬼のやうなものではなく、賓は却つて我々とは親しみ易い兄弟や愛人のやうなもの」(萩原1917)であるとも言えるのだろう。

 

続く