知覚と実感、そして認識について

久しぶりだなあ またレールに乗りました。
元気にやってます。

私が実感できることが私の世界の全てであって

私に実感できないなにかがあるということは理解できても私の一部にはならない だからそれは私を動かすことはない
 
複雑さ精密さの極致であるように見えてつるつるぴかぴかしている機械とか 白秋の「夜」だとか国会図書館新館1階の舞だとかには美があると感じるしなにかじんわりゆっくりとした音波みたいな情動を感じる その場合それは私にとっての芸術作品で朔太郎の言うところの生きて働く心理学たりえているのだと思う
 
でもトレヴィの泉の良さはわからないしサモトラケのニケもカメラオブスクーラもフラアンジェリコも同じ ラオコーンの死は好きだけど教科書に価値があると書いてあったり周囲がすごく大切なものとした物言いをするから私はそれに価値があるんだろうと理解するし価値のあるもの芸術だとして扱う それは私の持つ社会性だと思う
 
 でもそれは私の実感ではないし内側に入ってはこない 私の何も振動させない 
 

 

自分に分かることだけが世界の全てだなんて言うと貧しい人間だと言われるかも知れないけれど 自分の知らないことはこうなのかな、こういうことがあるのかもしれないなという想像妄想はそこそこしているし世の中には私に理解できない物事が死ぬほど存在しているというのは実感している その事で苦しむこともある
 
きっとそれが物事が完全に自分の手を離れているときや私の実感と何一つかぶらないときに自分がそれを否定しないしそれに干渉することはない理由なのかな 考えることはあっても表明しない 
 
だから私は周囲に遠い地域の問題や近く身近でも範囲の大きい問題について、我が事のようにしっかり受け止めて考えを表明する人はすごいなあと 距離を置いて思ってしまうんだよね
短慮ゆえに笑われることへの恐怖がないもしくはそれを乗り越えている それは幸せなことだし強さだし成長に繋がることだ
 
知は力なりと言うけれど 私は自分のその知が 知らない事があまりにも多すぎるだろう 知る事ができない領域に大事な事が隠されているかもしれない そう考えると身動きが取れなくなってしまう
 
20を過ぎて何を臆病なことをと自分でも思う これでは何も進歩しないだろう
 
でも進歩は私を幸福にしてくれるのか?
 
自家中毒かもしれないし余計な事を考えすぎだとも言われる こじらせてる という一言で片付けられるんだろうし前向きかと言われても即答できない
まっすぐ前向き安定明るいキラキラ発言を重ねていく人間が魅力的である ことは分かる これは前述した理解だし良いと思う 憧れる
 
でも私はこれらの事を考えているときに暗い気持ちになってるわけでもない 
むしろ夜ベッドで眠ろうとして幸せに微睡んでいる時よくこういう事を考える
明日何しようかなあとか今日のご飯おいしかったなあとか そういうことを考えるのと同じであって自分から不快になってる気はないし不快だとも思ってないんだけど
 
でも私は最近酔うと満足な豚を賞賛してしまって後から後悔することが多い。友人にも酔ってソクラテスを語るのは愚かだと言われた
そういうことばが出てくるのは脳みそつるつる人間は幸せ という意識が拭えないんだろうし 
 
へいれっつつるつるいえあ
 
 
 
昨夜ベッドでぼーっとこんなことを考えてて 半分寝ながらスマホさかさかしてたんだけど
これをうっかりfacebookに投稿しようとしていて肝が冷えました こわこわぱっぱ